私が「四柱推命」に出会うまで 〜私という名の物語1〜
アパレルの店長として勤めることになるまで、私は次々と転職をしました。2,3年の間に6社に勤務。 高卒という学歴のなさが劣等感を生み、「私はどうせ正社員になんかなれない」そう思っていました。
自分のやりたいこと、自分に合う仕事、そんなこと、わかるわけない。
その頃お気に入りのブランドがありました。そこによく行っていて、店長と仲良くなりました。 ある日店長に声をかけられました。「ななちゃん、うちで働かない?」と。
その後何度も何度も誘われました。嬉しいけど、アパレルの仕事なんてやりたくない。認められたことは嬉しいけど、それはやりたくない。 「アパレルなんてあんなのチャラいやつがやる仕事だよ」そう豪語していました。 私はアパレルの仕事なんて絶対やらない。そう決めていました。
その頃私はバーテンダーとして松戸市内のバーでアルバイトをしていました。 半年が経った頃、バーのマスターからこんなことを言われました。「お店を閉めるから、バイトは今月いっぱいで」。
え? そんな急に……?
職を失った私は仕方なく、アパレル店長のお誘い通り、アパレルの仕事に就くことにしました。
まずはアルバイトとしての入社です。 婦人服販売のアルバイト。接客、商品ディスプレイ、そんなのやったことない。どうやるの? なんかわかんないけどやってみる。必死でした。
何もかも必死でやりました。 その必死さが店長に伝わったのか、一年後、絶対無理だと思っていた正社員になることができました。
さらにその後チャンスをもらい、店長に昇格することもできました。「私だってやればできるんだ!」そう感じました。
店長に昇格すること、それは引っ越しに直結することでした。 その時働いていた店とは異なる店の店長になるからです。 友達もいない、知り合いもいない、その土地のことなんて全くわからない。 そんな中、やったこともない店長業務を一人でしなければならない──。
店舗の売上管理、会社からのプレッシャー、スタッフとの関係性。 店長になってからというもの、頭の中は常に仕事のこと。 いつも仕事のことばかり考えていました。
だけどそれを誰かに相談することはできず、頼りたい彼氏は近くにいない。 心も体も、ストレスと過労に蝕まれていきました。
それは病気に直結し、腎盂腎炎や尋常性乾癬を発症しました。 車が廃車になるほどの事故に二度も遭遇しました。朝は起きるのが嫌でした。いつも気分はどん底。 診断されてはいませんが、今思えばあれはうつ状態だったのかもしれません。
そんな状態ですから、周りに頼ることなどできるわけもなく、 ツンツンギスギス。 鬼軍曹並みの仏頂面。
スタッフはどんどん辞めていきました。
あの頃の私は、本当に困っていました。
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